観音寺騒動|捨てきれない3月勃発説
Web上では後藤賢豊が謀殺された観音寺騒動の勃発は、永禄6年(1563)10月1日が通説として定着していますが、「10月ではなく3月」説も根強く残っています。複数の古文書に3月勃発の記載があり、賢豊の本拠地である中羽田町に3月勃発説を裏付けるかのような風習が、最近まで残っていたようです。それは、賢豊の死を悼み「3月節句の行事は一切行わない」というものです。
これについては、冊子「八日市市の昔ばなし-孫にきかせる」で紹介されています。もしこの風習が古くから受け継がれてきたものであったとすると、3月勃発説の信憑性を裏付ける、根拠の一つになるのではないでしょうか?
以下、古文書に記された観音寺騒動勃発時期の一覧を、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」から引用させていただきました。
文書の成立 | 文書の名前 | 騒動の勃発 |
永禄6年(1563) | 厳助往年記 | 永禄6年10月 |
元亀 3年(1572)頃 | 兼右卿記 | 永禄6年10月1日 |
天正末期(1590-1592) | 足利李世記 | 永禄6年 |
寛永10年(1633)頃 | 氏郷記 | 永禄6年3月15日 |
寛永15年(1638)以前 | 勢州軍記 | 永禄6年3月 |
明暦2年(1656) | 江源武艦 | 永禄6年3月23日 |
延宝6年(1678)以前 | 長享年後畿内兵乱記 | 永禄6年10月1日 |
元禄3年(1690)以前 | 永禄以来年代記(年代記抄節と同じ) | 永禄6年10月1日 |
元禄8年(1695) | 蒲生軍記 | 永禄6年3月15日 |
元禄年間(1688-1701) | 浅井三代記 | 永禄7年3月23日 |
宝永年間(1703-1711) | 続応仁後記 | 永禄6年春 |
享保19(1734) | 近江輿地史略 | 永禄6年3月23日 |
安永年間(1772-1781) | 端石年代雑記 | 永禄6年10月11日 |
明治35年(1902) | 氏郷記(再校) | 永禄6年3月15日 |
この一覧を見る限り、勃発した年に近い文書では、通説通り10月とするものが多いようです。しかし、「氏郷記」をはじめ、3月とする文書も多く、安易に3月説を捨て去ることはできません。
また、初出の「厳助往年記」は作者である厳助が自らの日記をもとに、賢豊が殺されたとされる永禄6年に文書化したものであり、一次情報に極めて近いものとして評価できます。この文書の写本が国立公文書館デジタルアーカイブ に載せられています。
厳助往年記:国立公文書館デジタルアーカイブ から引用
賢豊が殺されたとされる永禄6年の出来事は、この閲覧データ末尾の 117-120ページに収められています。観音寺騒動については、7月18日の日付の欄(119ページ後半)に「江州観音寺城滅却及乱事」という記載が見られます。尤もこれは、観音寺騒動が起こった日というよりはむしろ、伝え聞いた一連の騒動を記した日と捉えた方がよさそうです。もしそうだとすると、10月に入る2カ月以上も前に騒動が起こっていた事になり、10月説とは符合しません。騒動勃発の時期については、未だに情報が錯綜しており、コンセンサス形成までの道のりは長そうです。